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沖縄の歴史から考えてみる

琉球コインとは?

(1)琉球コインのニュース

  4月15日、仮想通貨技術「ブロックチェーン」を活用して琉球コイン(仮)をつくり流通させる構想を県内の金融機関、企業が検討していることがわかった。ビットコイン、円、ドルと換金できること、世界中に42万人いるとされるウチナーンチュや沖縄を訪問する観光客、琉球空手を通じて沖縄に関心を持った空手家などがターゲットだ。今回の論考では、沖縄の過去、現在を通じてなぜ、沖縄のビットコイン構想を論じながら、それとの関連でZEN OSの描く未来像を提示したい。

(2)沖縄の立ち位置① ーマンダラ国家論とブロックチェーン

 前近代の東南アジアの国家形態をオリバー・ウォルタースが「マンダラ国家」であると論じた。東南アジアの国家は、巨大な中央集権の強い国家が成立せず、地方ごとにまとめる小さな主権、それらをまとめる中規模の主権、それらをまとめる大規模な主権というように重層的であった。理由としては島嶼やジャングルなどの地理的条件などから巨大な中央集権的な王国が成立しにくかったからである。

 加えて多くの王国が中国に朝貢し中国と冊封関係をつくりながら、一方でイスラム教やヒンドゥー文明を受容し、中心となる王国の王がヒンドゥー教の神格になぞらえ権威を振るうことがあった。それらの王国の中にある都市国家の中には、中国に独自に朝貢し中国の権威の下で事実上独立しているケースもあった。現在の南ベトナムにるチャンパーは、サンスクリット語が公用語とされヒンドゥー教や仏教を受容しながら時期によっては中国に朝貢していた。

 マンダラ国家論で考えるならば、かつての琉球王国もその傾向が窺われる。グスク時代(11世紀から12世紀前後)には既に日本語と同系統の言語が話され、多神教で神道との共通点が指摘される。琉球王国は14世紀に成立し明に朝貢する一方で、古事記に登場するイザナミノミコトなどを祀る波上宮が創建された。天照大神を祀る沖宮も創建されている。当時から、日本と中国の両国の影響下に置かれ、文化圏に所属しながら独自の王国がが成立していた。さしづめ、中国と日本という琉球から見たら巨大な国家が同心円状に影響を及ぼしながら、直接支配することは出来ないそうした地域が沖縄なのだ。まさしく日中のマンダラの中に、王国があったのだ。その一方でマラッカ王国やシャム(現在のタイ)との交易が盛んであり文化的な影響があった。

 その後、江戸時代に入り薩摩の琉球侵攻で薩摩の支配下に置かれたが、その後も清王朝へ琉球王国として朝貢した。両属帰属の地であった。こうしたことから、琉球は近代的な単一の領土に単一の主権という概念からは外れ、日中の影響下に置かれながら独自の王朝があるという支配構造があるのだ。

通貨にしても、当時の歴史書では寛永通宝と琉球王国の通貨である当間銭、清朝銭が使用される土地であった。

 私は、この歴史を考えた時に、「なぜ沖縄で財界をあげて大規模に仮想コイン事業が行われるか?」のヒントになると考えた。沖縄の歴史において、単一の国家が単一の主権を持つという現象がたかだか140年近くの歴史しかなく、むしろ500年以上もの間複数の主権が重なり合う土地だったのだ。主権国家体制では、国家が持つ通貨主権で管理されるという原則がある。しかし、そもそも複数の主権が重なり合うならば、複数の通貨がそれぞれ権威を持つことだってありうるはずだ。

 琉球コインの想定では、世界中のウチナーンチュ、海外からの観光客が想定され、円とドルとビットコインと交換可能だ。沖縄は、もともと中国と日本が複層的に影響を及ぼしながら東南アジアや中国との交易で発展してきた土地だ。加えて、戦後の沖縄にはアメリカの影響がある。複層的な影響がありながらも独自の琉球の民間信仰や食文化が育まれた。

 また、近年では、琉球空手を通じて沖縄の信仰や文化に関心のある外国人や琉球音楽に興味のあるナイチャーも増えている。後述するように沖縄は、文化的には東南アジア各地との交易で栄えた時代の焼き直しのようである。琉球コインとは、強い主権が複層的に織りなしながら数百年生き残った琉球王国の時代の栄光を取り戻し、日本でもなければ中国でもアメリカでもない”沖縄””琉球”の象徴かもしれない。

(3)沖縄の立ち位置②ー大交易時代と琉球コイン

 昨年、沖縄の勝連城跡から古代ローマのコインとオスマン・トルコ帝国のコインが発見された。 歴史的意義については慎重な検討が必要だが、東南アジアや東アジアとの交易を通じて中東や西洋とも歴史的に繋がっていた可能性が高いことを示唆する。

 14世紀から16世紀の琉球王国は、大交易時代と呼ばれ繁栄を謳歌していた。当時の明王朝は、海禁政策を敷いており中国との直接的な貿易は朝貢貿易を通じてしか出来なかった。10年に1度しか朝貢できない国家もある中で、琉球は毎年朝貢を許可され、時期によっては制限なしに朝貢することが出来た。馬や硫黄、珊瑚を輸出し、陶磁器や絹織物、漆器、書籍を明から輸入した。複数回、朝貢できた理由は、北元との政治的対立があり硫黄や馬を輸入したかったからと言われている。明からの商品を日本や東南アジア諸国が欲しがったので、それらを中継貿易で輸出した。香木や胡椒、象牙、日本刀を輸入し明から輸入した陶磁器や絹織物などを輸出したのだ。当時のマラッカ王国やシャム王国と交易が大変盛んだった。那覇は国際貿易港として栄えた。

 当時の繁栄ぶりは、1458年に尚 泰久王によって鋳造され首里城正殿に飾られた「万国津梁之鐘」の碑文に書かれている。有名な一文は以下の通りだ。

「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」

 今の日本語に訳せば「琉球国は、南海の景勝地にあり、朝鮮の秀れたものを集め、明とは両輪の輪であり、日本とは唇と歯の関係である。我が国は日本と民との間にある湧き出る理想の島であり、船をもって万国の架け橋となり、珍しい宝に溢れている」となる。その後の文章には、尚 泰久王のもとで仏教が盛んになり琉球が平和になった、という趣旨の内容が書かれている。実は鐘の碑文を書いたのは渓隠という禅僧であり、鋳造したのは藤原国善という日本の鋳物職人だった。当時の琉球には日本から多数の禅僧が渡来し、寺院が建てられた。禅僧は外交官を兼ねて琉球に渡来していた。建てらた寺院は、宗教上の施設としての役割のみならず外交官として僧を迎える役割があったとする説もある。沖縄の伝説上の仏教を伝えた僧は、13世紀中山王英祖王の時代に渡来した南宋の禅鑑という補陀落僧とされる。補陀落渡海とは、南方の彼方にあると信じられた観音菩薩の住む土地へ行く捨て身の船出であった。この伝承の有無はさておき、補陀落渡海僧が度々琉球に渡来し琉球の仏教に影響を与えたのだ。

  そして、沖縄にこの碑文と経緯が示すのは、いかに当時の琉球が交易が盛んであったこと最盛期の琉球は、日明とそれに加えて東南アジアのそれぞれがマンダラの同心円状に影響を及ぼしあいながらも独立を保ったことを示唆される。

 現代、沖縄発の音楽や文化、料理、空手などの文化に興味を持つ人はナイチャーはもとより外国人まで興味を持つ時代となっている。世界各地で沖縄文化が広がっており、万国津梁之鐘が鋳造された時代を彷彿させます。そうした時代に立ち返るツールとして琉球コインが考えられる。

(4)琉球コインとZEN OS

私たちが作るZEN OSは、こうした琉球のような歴史に埋もれながらも独自の文化を持つ地域を世界中でプロデュースするOSとなることを目指している。琉球は当時17万人の人口しかいなかったにも関わらず東アジアから東南アジアの貿易の一大拠点でした。当時の琉球は大変小さい国にも関わらず世界に存在感があった。私たちは、主権国家体制に埋もれながらも独自の文化を持つ地域にZEN OSを通じて通貨を持つことが出来る環境を提供する。小さくと世界の中でキラリと光る地域と経済圏を作り出すことを目標している。

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